architecture

第9回 『デザイン×建築 アンフィニホームズ 吉川均の軌道』

【こんなはずでは…】

 コロナ禍が1年も続き、未だ明るい兆しが見えないとは思いもしませんでした。
静岡市も現在、感染拡大は減少傾向で、本来ならそろそろ街ブラをしながら春を体感し、気に入ったお店でお気に入りのアイテムを探し、食事を楽しむ事ができるはずですが、気持ちが今一歩高揚しないのは私だけでしょうか?

 東京都の緊急事態宣言によるマスコミによる危機報道に感化されたせいか、私も家族との自炊と会社を往復する生活にすっかり慣れてしまいました。これはいけない、いけない。もっとアグレッシブに活動しなければ…。
時折街を見ると、閉店やシャッターの閉まった空き家が目につき3月(決算期)に向けて多くのお店が閉店するようです。

 1年前、今年の春頃には新型コロナウイルスが下火となって以前と変わらない活気ある生活ができると信じて、入場抽選にハズレてしまったオリンピックをTVで観戦する予定でした。しかし、その影は依然として人々に重くのしかかり、気持ちまで蝕んでいるため、経済活動はマヒ状態です。
 一日も早く経済がもとにもどらないと閉店する店が後を絶たず、街に人がもどらないまま私たちがランドマーク的建築で目指した街興しも無用になり、閑散とした街になってしまうのではないかと心配しています。

▲紺屋町 Y’s PLATZ テナントビル

【大好きな静岡の街】

 とはいうものの前回執筆したように、『2021年やりたいことオンパレード』を掲げての第一弾、紺屋町ビルが完成を迎えます。入居者の内装工事が始まるので4月中旬のOPENなのですが、街の中心部なので入居も決まっているはずでした。しかし、この状況で経済が疲弊してるため、すべての入居が決まっていません。弊社も含め、街なかの賑わいに対するコロナ禍の課題がここにあります。

 昨年紺屋町にビルを建てることが決まり、ランドマークにはならないものの街の賑わいを考えるというコンセプトが前提でしたので、街の歴史を調べていました。
じつは紺屋町を調べれば調べるほど現在の静岡の街の姿は徳川家康公の作品だと感じてしまいます。歴史的に見ると残念ながら静岡では存在感の薄い今川氏が駿府の街を室町~戦国時代までの230年間を統治しました。京都王朝文化を受け継ぐ戦国3大文化に数えられ、東国の京と呼ばれる都市を創りあげたわけで、今川氏が都市の原型を創ったと思っていました。東国の京といわれた文化が現存しておらず、その存在が知られていないのは何故か?私の仮説では今川義元亡き後、支配していた武田が徳川・織田軍に負けて撤退した際に駿府を焼け野原にしたと同時に、それらすべてが焼失してしまったのではないかと推察しています。

 しかし、家康公が駿府にいた期間は幼少時の17年と、隠居後の8年というわずか25年間。しかし隠居して大御所政治を駿府で執り行うことで現在の静岡市の原型ができあがるのです。駿府城を大型化し、安倍川の治水事業を行いました。この安倍川の水は平成11年まで日本一きれいな川水といわれていたそうです。建設中の紺屋町ビルの地下にもその地下水が流れ、多すぎる水をポンプアップするという苦労も家康公の置き土産なのでしょう。

 同時に京都のように大手門を中心に碁盤の目のような道をつくり、36ヶ町という町割り(区画整理)を確立。軍事的な要素までも考えた武士・職人・商人がそれぞれ集団となって住む城下町を形成し、町名がつけられました。今でいうSOHOスタイル(ビジネス兼用住居)ですね。そこで「紺屋町」の登場です。

 私も調べていて初めて知りましたが、わずかな間ながら家康公の静岡の大御所時代は上方や江戸の人口が15万であったのに対し、駿府(静岡)は10~12万。家康公についてきた武士団職人が主で、まさに日本の3大中心地であり、街は活況を呈していたようです。これだから歴史の紐解きは楽しいですね。
やはり現在の静岡市は、20数年居住した家康公によって創られたものといっても過言ではありません。

▲紺屋町 イベントスペース SORA

【紺屋町の風景】

 弊社が街づくりを行っている鷹匠と紺屋町は歴史的にまったく違う街です。
鷹匠は鷹狩を含めた武士団の住居が横内門から続き、武家以外は1軒もなかったようです。そこから続く伝馬町は駿府一等の宿場町。そして匠のいる職人の紺屋町に続いていきます。家康公隠居政治に伴う町割りによる城御用達の御用染め物師の町として紺屋町ははじまりました。暖簾・旗・前掛け・陣幕さらには反物までの需要で50軒を超える紺屋が存在し、近隣に呉服屋・古着屋などが共存していたと記されています。

 しかしなぜ職人の町に静岡街道随一のパワースポットである小梳神社があるのか?また一加番神社(城警護団・旗本)のある鷹匠の人が、なぜこの神社の氏子に名を連ねてるのか?鷹匠と紺屋町の関係性は?という疑問がありました。家康公が大切した駿府の守護神であり、昔城内から小梳神社が鷹匠に移設されたときは城代をはじめとして加番の武士団が総じて工事を指揮していたようです。

 1675年に現在の紺屋町に移設された理由ははっきりしませんが、加番の屋敷が当時紺屋町に残っていたと記されていて、この職人の町に350年もの間、駿府の守護神社が今も存在しているわけです。ゆえにこの街は駿府の守護神とそれを警護した武士団・職人が混在している様子が想像できます。

▲紺屋町 小梳神社

【紺屋町に想う】

 私は鷹匠の街で多くのプロジェクトに取り組み、現在の街の風情に賑わいのための要素を加え、ランドマークになる建築を考えてきました(もちろん賛否はあると思いますが…)。
 鷹匠は上品な文化的な空気と隠れ家的な小さなお店が点在し、ネオンが瞬かない街。そしてコロナの終息とともに新たなアートのイベントを企画し、建物ではない街のランドマークを創りたいと考えています。

 今回紺屋町に弊社事務所を開設するにあたり、鷹匠と紺屋町の違いを調べていくなかで、歴史的な背景に小梳神社による2つの街の関連性を見出しました。
 紺屋町は現在ならばアパレル生地発祥の地。そして江戸時代駿府の守護神であった小梳神社の祇園祭は小梳神社が八坂神社(旧祇園舎)の傍流であることも見逃せません。やはり紺屋町も鷹匠も静岡最大の文化の中心地だと思うのです。
 
 そして小梳神社を介した2つの街の人の交流が、街のにぎわいを創出するカギなのかもしれません。小梳神社を中心に弊社ビルの屋上にそんな時代を垣間見ることができるイベントや、鷹匠で開催するアート展を紺屋町で開催するなど、この街で生活する人たちの協力を得ながら、新たな紺屋町の賑わいを創りたいと思っています。やはり紺屋町には混在した文化とアートが似合うと信じて…。
※歴史資料は稲葉昌代氏「明治中期における静岡の紺屋」参照

▲駿府城下町割図