architecture
第6回 『デザイン×建築 アンフィニホームズ 吉川均の軌道』~日本のLIFE STYLEをつくったVAN石津健介氏~
昨年、5回にわたって建築をテーマに連載しましたが、これから2カ月に1回のペースで新たに連載をはじめます。建築の領域にとどまらず、私の人生において多大な影響を与えた石津健介の思い出も交えて、お話しさせていただきます。最初は、私の軌道の根幹にある石津健介の話しです。
父の後妻との確執という理由から、私は大学を中退して自力で生きていく道を選ぶことになりました。その当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったアパレルメーカー『VAN. Jac』の難関をなぜか潜り抜け、本社採用となりました。当時は就職したい会社NO1で入社することがとても難しい会社でした。芸能人が行き交う“VANタウン青山”と呼ばれる東京青山の本社で、社会人としての第一歩をスタートしました。時は1970年代、日本全体がまだモノクロ映画のようでした。そこに新たなフルカラーの世界を出現させたのがVANでした。石津健介という稀代のクリエーター社長が率いるVANは、アイビーからウエスタン、米国西海岸のファッションまでを網羅し、モダン高級家具のarflexや、日本の家庭に初めて飾れる観葉植物を提案したGreenHaouse、オーガニック志向の生活雑貨を提案するOrangeHouse、日本初の立ち飲みエスプレッソが味わえるエスプレッソ356を併設したVAN99ホールをつくりました。このホールでは99人の観客が、ジャズ、ボクシング、寄席、演劇といったイベントを99円で観ることができます。海外の新しいLIFE STYLEを本格的に日本に伝えようとした試みが当時の若者に支持され、人気のスポットとして話題を集めました。
VANstyleで新しい衣食を創造・提案し、いずれは住の建築まで手がけるのではないか?と私たち社員は思っていました。ファッションのイメージだけが一人歩きするのではなく、海外の洗練された衣食住を可視化して提案し、ビジネスとして具現化した日本初のLIFE STYLE企業がVANでした。当時、多大なる影響を受けていた経営者の方も多いのではないでしょうか。
【cotton life】
入社して間もない頃、突然私の上司がアパートに訪ねて来ました。部屋に入るなり、私の生活雑貨や服をゴミ箱に捨てていく。戸惑う私に「君の生活は化学製品にあふれている。そんな生活はやめてCOTTN LIKEな生活に変えた方がいいよ」と言って帰っていきました。今思えば、自然から作られたオーガニックな素材を身にまとい、持続可能な生活を体感することで自分の価値観をアップデートさせるということがVANの本質だったのでしょう。しかし、その当時は不思議な行動としか思わず、真の意味で理解できたのは、ずいぶん後になってからです。
その上司が“like”と言ったのは、自然なもの(cotton)を好き(like)になる生活をしなさいと言ったのでしょうが、私はcotton life(天然素材の生活)と理解して実践を始めました。当時からVANにはオーガニック的な考え方があって、自然素材による製品づくりを目指していました。すべてのVAN製品はウール100%、もしくはコットン100%でつくられており、ジャケットの裏地でさえコットンリンターという綿花の実の一部でつくられたキュプラでした。当時を知る方は、オックスフォードB .Dシャツのコットンの肌触りと製法のこだわりを今でも忘れていないはず…でしょ?
その【cotton life】を実践することで、COTTN LIKEの価値を実感、共感させるのがVANでした。それから時が経ち、いつかはVANがやるだろうと考えていた建築に興味を抱きました。すでに往時のVANは倒産していましたし、石津健介氏には到底及びませんが、建築のセオリーを知らずに熱い想いだけで廻った欧州で目に入ってきたものは石造りの建物ばかりでした。天然石の美しさと堅牢さに感動し、日本でこんな建築がやりたい!と帰国。その後、天然石の高額なことに唖然とし、そこでコンクリートの表現力に同じ自然感を見出しました。コンクリートの成分が天然素材であることを知り、それならばとコンクリートの世界に飛び込みました。いまでは木造や鉄骨も手がけますが、その仕様にはできるだけ自然素材を使っています。
当時、薫陶を受けた【cotton like】な生活とは素材選びだけではなく、洗練されても華美にはならず、too muchなものは選ばないという弊社のコンセプトに多大な影響を与えています。
▲石津健介氏
【COLORは命】
話しはVAN時代にもどります。VANは製品企画が終わると、どのような色の生地をどれだけ製造するのかという会議があります。1つの製品に何色の生地を使って、何枚つくるのか?それが何百種類もあるわけですから、時間と労力が求められるハードな作業になります。カラーバリエーションも数百色あって、その度に色見本帖を参照していては時間がかかりすぎます。そのため、新入社員の時からすべての色に共通ナンバーを付けて、それを暗記することが必須になります。
色彩は服の命。そう叩き込まれながら仕事をする内に、社員同士でも微妙な色合いまで共通ナンバーで理解できるようになり、色見本帖が不要になりました。VAN語とでも言うのでしょうか?色を共通言語として認識するわけで、現在も建築で使う色は特別なものと考えています。弊社の新人は必ずといっていいほど、私から色に関してダメ出しの洗礼に遭いますが、これも石津健介氏から学んだ教えの1つです。
【そして静岡へ】
入社して数年後、突然VANは日本全国に12の支店を設けることになり、会社からの要請で私も東京を離れることになりました。私が行きたい地方都市で約1年間、百貨店の直営店長を兼務した市場調査を拝命しました。大都市でも田舎でもない静岡、東京にも程よく近く、自然が豊かで気候が温暖、食材も豊富。そして、富士山と海があり歴史のある静岡を選びました。
赴任地は西武デパート(現PARCO)の2階にあったVAN直営店。いつも小さな休憩室で昼食をとりながら、小梳神社と紺屋町を眺めながらが毎日の日課でした。地縁のない静岡との生活はここから始まりました。それから40数年を経てPARCO前にあった、かに本家跡地が売り出され無条件に購入することを決めたのは、この時の縁があったからではないかと思います。若かりし日に、石津健介氏に教えられたVANイズムをこの紺屋町で実践できるか?自分に与えられたチャンスを楽しみながら、紺屋町界隈の街づくりにチャレンジしていきたいと思います。
※石津健介氏:戦後VANという会社を設立、欧米の風俗を紹介し若者たちにアイビールックを定着させ、生活環境全般にスタイル提案を行う。
▲かに道楽跡地に建設の低層建築 (Y’s PLATZ)